清明節(せいめいせつ)とは?

清明節(qīngmíngjié)は、日本でいうお彼岸やお盆にあたります。この日は家族で先祖の墓参りに行き、お墓をきれいに掃除して食べ物をお供えします。
ちなみに英語ではTomb Sweeping festival(お墓掃除の祭日)と直訳します。

周の時代から続く2500年以上の歴史を持つ伝統行事であり中国4大伝統祭日の一つです。
踏青節、行清節、3月節、祭祖節などと呼ばれる場合もあります。

清明節は二十四節気(にじゅうしせっき)の第5番目『清明』(※春分から15日後)の日から始まります。
西暦では毎年4月5日前後が清明になります。

清明節の時、中国(台湾も含む)は通常3連休となります。
※2019年は4月5日(金)・6日(土)・7日(日)É.

日本のお彼岸と違うところは、坟頭紙(féntóuzhǐ)と呼ばれる紙切れを置いたり、紙銭(zhǐqián)と呼ばれる冥途のお金を焼いたりする風習があるということです。また、清明節の前日または前々日から三日程度、火を使った料理を食べない寒食という文化もあります。
(※最近の中国人はほとんど寒食をしません。)

春分(しゅんぶん)は二十四節気の第4番目にあたります。太陽がほぼ真東から出てほぼ真西に入り昼夜の長さがほぼ等しくなります。
この春分から夏至(げし)までの間は、昼が一日一日長くなります。仏教では東を(現世)、西を(極楽浄土)とする考え方があります。
太陽が真東から昇り真西に沈む春分から清明節にかけては、極楽浄土に最も通じやすい季節であり、この時期に先祖供養をするようになったと言われています。

清明節(せいめいせつ)に関する小話

坟頭紙(Féntóuzhǐ)の由来

秦朝の末期、劉邦は西楚の覇王項羽と何度も戦いついに天下を取り、漢王朝の初代皇帝となりました。

そして故郷へ錦を飾ることが出来た劉邦は、両親の墓参りに行きました。

しかし長年の戦乱により墓地は、雑草が生い茂り荒れ果てていました。

墓石に刻まれた名前も読むことができないため、劉邦は自分の両親を見つけ出すことができずとても悲しみました。

それを見た部下たちは、倒れた墓石を一つ一つの墓をひっくり返して劉邦の両親の墓を探しました。

しかし、一日中探しても見つける事ができませんでした。

最後に劉邦は、袖の中から一枚の紙を取り出して、たくさんの小さな破片に引き裂いたあと、手で握りしめながらこう言いました。

『天国にいるお父様お母様へ。今日は風がとても強いです。私は紙切れを空に投げます。落ちた紙切れのなかで、お父様お母様のお墓の場所に落ちた紙だけは、風が吹いても動かさないでお示しください。」

劉邦が、紙切れを空に投げると1枚の紙切れが墓の上に落ちています。しかもその紙は風がどんなに吹いても動きません。劉邦はその墓に走っていき墓碑を確認すると確かに父母の名前が刻まれていました。

その話を聞いた庶民は、劉邦と同じように毎年清明節に先祖の墓を拝み、そして墓の盛り土の上に紙※坟头纸(Féntóuzhǐ)を置き先祖にお墓参りに来たことを伝えるようになりました。

寒食(Hánshíjié)の由来

中国の春秋時代、晋の公子に重耳(ちょうじ、前697年-前628年)という人が、いました。彼は陰謀に巻き込まれ19年間の国外流浪生活を余儀なくされます。

重耳に従っていた家臣の多くは、重耳のもとを去りました。しかし、忠誠心の数名だけは重耳にずっと従い続けました。

その数名の中に介子推(かいすいし)という人がいました。

流浪の旅を続ける重耳一行は、あるとき食料が無くなります。その時、介子推は自分の太ももを切り取って焼き重耳に与えます。

長くて苦しい亡命生活が終わり、晋にもどった重耳は、君主に擁立され文公(ぶんこう)となります。
※後に文公は、春秋五覇の一人と呼ばれます。

実権を握った文公(重耳)は、自分と一緒につらい流浪の旅をしてくれた家臣たちを労いたくさんの褒美を与えます。

しかし、介子推にだけ褒美を与えるのを忘れていました。

あるとき文公(重耳)は、自分が介子推へ不当な待遇をしていると噂されているの耳にします。

文公(重耳)は、すぐに昔の出来事を思い出し、心より恥じて、褒美を与えるためすぐに介子推のもとへ人を派遣しました。

しかし、派遣された人が何度訪ねて行っても介子推は出てきません。痺れを切らした文公(重耳)は、自ら介子推に会いに行ったところ、家の大きな門は固く閉ざされていました。

介子推は、文公(重耳)と会いたくないので老いた母親を背負って山へこもってしまっていたのです。

文公(重耳)は、介子推がこもった山を見つけ捜索しますが、彼を見つける事ができませんでした。

その時ある知恵者が『介子推がこもっている山を全部焼かずに、三か所に火をつけて一か所を残しておけば、火を避けて介子推が出て来るでしょう。』といいました。

これを聞き入れた文公(重耳)は、山に火を放つよう命令します。

大火は三日三晩山を燃え続けましたが、山が灰になっても介子推は出てきませんでした。

焼き焦げた山に登り全体を見渡すと、介子推が大きな柳の木の下で老いた母を抱きかかえたまま死んでいました。

文公(重耳)は、変わり果てた介子推の死体を見て泣き、大きな柳の木の下に介子推と彼の母をそれぞれ埋葬しました。

文公(重耳)は、介子推が亡くなった山(綿山)を介山と改名し、祠をたてました。

そして、火を放って山を焼いた日を寒食節(Hánshíjié)とし、3日間は食事のために火を使わず冷たいものを食べるようになりました。

介山(jièshān)は、今も山西省介休县东南にあります。標高2566.6メートルです。